【特別インタビュー 野球評論家 荒木大輔さん】
不器用な自分とその自分はどうすべきかを知ったリトル時代
1980年夏、早稲田実業「背番号11」の1年生エースとして、甲子園大会準優勝。その後5大会連続出場を果たし、ヤクルトにドラフト1位指名を受けるという、華やかな経歴をもつ荒木大輔さん。そんな荒木さんの原点は、意外や“不器用な自分”。そして、それに気づかせてくれたリトル時代にあった。
――2001年、東京北砂リーグの世界一をご覧になって、ご自身が1976年に調布リーグの一員として優勝した思い出がよみがえってきたのでは?
荒木 そうですね。もう20数年経ちますけれども、ウイリアムスポートの町や球場の雰囲気、芝の感触などはいまだに覚えていて、懐かしく感じました。応援しながら、どこか自分をだぶらせて見てしまうような、そんな感覚。初めてああやって大観衆の前でプレーできたこと、選手村でほかの国の選手たちといっしょに食事をしたり、ゲームをしたり…卓球や輪投げ、あと、プールの飛び込み台から飛び込み競争もしましたね。何もかも、とてもいい思い出です。
――極東大会、世界大会というのが初めての海外遠征になるわけですね。
荒木 というより、飛行機に乗るのが初めてだったんですよ(笑)。うちは兄2人もリトルで極東大会へ行ってまして、2人を見送りに行ったときに、自分もその飛行機に乗りたいと思った。実はそれが、そもそも僕がリトルに入ったきっかけだったんです。
――「お兄ちゃんを超えたい」という気持ちはありましたか?
荒木 「超えたい」というより、とりあえずは追いつきたかったですね。長兄とは6つ離れていたので別にしても、4つ違いの次兄が活躍して、たとえば「JAPAN」のユニフォームを着てやっていると、親も当然そちらにカを入れるし、話の中心が向こうに行ってしまう。やれば、僕にも振り向いてくれるんじゃないかとか、自分の話題を取り上げてもらいたいとか、そういう気持ちは絶対あったと思うんですよね。
――初めは主にサードで、その後ピッチャーとの兼任になったんですね。
荒木 はい。僕は小6でリトル卒団だったんですが、ちょうど中1に今、日本ハムでバッティングピッチャーをしている津村(潔)さんがいまして、2人で替わりばんこにピッチャーとサードをやりました。
――希望としては、ピッチャーがよかった?
荒木 ええ。やはりピッチャーで、自分が投げて勝つ…結果が出るというのは、子どもながらにも楽しみでしたから。
――津村さんに対して、ライバル意識はありましたか?
荒木 僕はそういう感覚はあまりなかったですね。たとえばサードを守っていても、三番を打たせてもらっていたので、チームの中心ではあったわけです。自分が打たなければとか、そういうことも意識していましたんで、ピッチャーに対してそれほどの強い思いはありませんでした。彼を超えたいとか、俺のほうがエースだとか。
| 荒木大輔(あらき・だいすけ) 1964年5月6日、東京生まれ。1976年、調布リーグの投手として世界大会に出場し、優勝。準決勝のプエルトリコ戦ではノーヒット・ノーランの快挙を成し遂げた。早稲田実業高校から83年、ドラフト1位でヤクルト入団。86年から2年連続開幕投手を務める。99年、横浜に移籍、翌年引退。通算成績は180試合39勝49敗2セーブ、防御率4.80。現在は野球評論家としてテレビ、ラジオ、新聞などで活躍する。 |
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