【(株)プリント回路設計・元日本ハムファイターズ投手 津村 潔さん】
世界一の瞬間、もっと派手に喜んでおけばよかった!
僕らの小学生時代、リトルリーグはちょっとしたブームだったんです。3年生のとき、友達に誘われて調布リーグのテストを受けに行ったら、僕だけ不合格。悔しくて「もう1回受けよう」と思ったのが、野球に熱を入れたきっかけでした。 準硬式でキャッチャーをしていた親父とキャッチボールやピッチング練習をした甲斐あってか、翌年合格。当時の調布リーグは勝つのが当たり前、勝ちが義務付けられているチームでした。春の大会、(荒木)大輔が投げて飯能に23対3ぐらいで勝ち、大会に優勝したときも、「エースが3点取られたら負けだ」と、ひたすらグラウンドを走らされました。 毎日の練習量がとにかく多く、ランニングの多い時期には筋肉痛で和式トイレには座れないわ、階段も上れないわ…。僕はバッティングがあまりよくなかったので、金属バットが割れるまで練習をしました。あのときは手の皮がポロポロで、はしも持てませんでしたね。 (鈴木秀俊)監督はまるで神様のようで、後光が差していました。今だから「神様」なんて表現できますが、当時は車が見えただけで「来た来た、やべえやべえ!!」。みんな監督が怖くて、監督が見ているときは死ぬ気でやりましたから。ただ、チームメイトにも恵まれて、ガッツのある子が多かったんです。どんなに怒られても、お互い負けたくなかったから、叱咤激励し合ってがんばることができました。 国内では8年間、無敵を誇ってきた調布も、極東(現在はアジア)選手権ではずっと台湾に苦しめられていました。台湾を破って世界選手権へ進むのが、先輩たちの代からの悲願でした。僕らも1度は台湾に負けたのですが、台湾が韓国に予想外の1敗を喫し、4勝1敗同士でプレーオフに。そこで、のちに中日に入団(89年〜90年)する陳義信を打って、極東代表を勝ち取ったんです。 「台湾に勝てれば世界でも勝てる」 前々からいわれていたとおりになりました。世界選手権、米国西部相手の決勝に僕が完投し、10対3の圧勝。でも最後のシーンは、今も後悔しています。6回3アウト日のバッターを討ち取った瞬間、もっと派手なジェスチャーで喜べばよかった! キャッチャーの、水瀬が僕に抱きついて来たんですが、「3点(自責0)も取られたから、怒られるだろうな」と抑えちゃった。なのにあとで監督に誉められて、あっけに取られましたね。誉められて、むしろ何だか気持ち悪くて…(笑)。 同学年の仲間は近所に住んでいる連中が多くて、しょっちゅうゴルフに行ったり飲みに行ったり。リトル時代の話もよく出ますね。今だに当時と同じあだ名で呼び合っていて、その仲間と会うときは僕も「つんちゃん」に戻ります。
〔写真:リトルリーグ時代の津村さん=左〕
| 津村 潔(つむら・きよし) 1963年8月1日生まれ。調布リトルリーグでは、荒木大輔さん(現野球評論家)の1学年上の右腕工−ス。76年の世界選手権、対西ドイツ戦では、完全試合を達成した。調布シニアを経て、明大中野高から83年、ドラフト外で日本ハムファイターズ入団。85年に現役引退し、昨シーズンまで打撃投手を務めた。現在はプリント基板の実装設計などを行う会社に勤務。 |
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