【長野県ボブスレーリュージュ連盟 稲田 勝選手】
野球もスケルトンも楽しければうまくなりますよ
02年、ソルトレークシティ冬季五輪にスケルトン日本代表として出場した稲田選手。スケルトンとは、腹ばいになってソリに乗り、全長1300〜1500mのコースを最高時速130キロで滑り降りる競技で、いわばウルトラマンやスーパーマンが空を飛ぶようにしてソリに乗るわけです。稲田選手は実は、かつて札幌白石リーグでプレーしたリトルリーガー。駒大岩見沢高校時代の96年には、センバツ高校野球で甲子園にも出場しています。なぜ、野球からスケルトンヘ? 土のグラウンドから氷のコースヘと転身した稲田さんがゲストです。〔写真右:札幌白石リーグでプレーした時代の稲田選手。同左下:スケルトンの選手として06年トリノ五輪でのメダル獲得をめざす稲田選手〕
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★強豪・調布がスイッチを押してくれた
――なぜスケルトン競技に転向したのかはあとで開くとして、そもそも、野球を始めたきっかけはどんなふうだったんですか。
稲田 もともと、母親が買ってくれたおもちゃのバットとボールで遊んでいたんですけど、近所の仲のいいお兄ちゃんに、キャッチボールなんかで遊んでもらったのがきっかけですね。それで小学校2年で軟式野球のチームに入り、6年までやりました。札幌白石に入ったのは、中学に入るときですから、リトルリーグは1年だけですぐにシニアに上がったんです。とにかく札幌白石は、楽しかったですね。楽しみながら練習する感じで、いまも監督は当時と同じ稲垣さんという方で、子どもに対する教え方がすごくじょうずでした。
リトルリーグはたった1年ですが、その91年に、長野でやった選抜大会に出ているんですよ。札幌白石はそれほど強いチームじゃなく、人数も20人そこそこで、5年生も試合に出るようなチームだったんです。現に全日本選手権の北海道連盟予選では、決勝トーナメントにも進めなかった。それが、センバツに向けてチームががらりと変わって。それまでちぐはぐだったのが、なぜかかみ合うようになったんです。
それで全国大会に進むわけですが、1回戦の相手があの調布でした。調布といえば大所帯で、世界一にもなっている名門で、しかもピッチャーがのちにドラフト1位でヤクルトに入った伊藤彰(00年で引退)。わあ、調布かよ…と、完全に名前負けです。開会式では、対戦相手が隣に並ぶんですが、正直、体つきからして全然違いました。自分たちは中1が4、5人しかいない上に、5年生までいて。調布はほとんどが中1で、背がでかくてガタイもごつい。
ところが、隣に並んだ調布の選手の声が聞こえてくるんですよ。「小さいなあ…」。監督にそんな話をしたら、よ〜し、見返してやれ(笑)。自分たちも反骨心がわいてきましてね、調布がなんだ、ナニクソと活気づいて…勝ってしまうんですよ。子どもの野球は不思議ですね。調布がスイッチを押してくれて、その勢いで勝ったようなものです。僕も2本ヒットを打ったと思いますよ。2回戦で負けたんですが、全国大会に出て、しかも優勝候補に勝ったんですから、楽しかったですね。
なにしろ、練習を休もうなんて思ったことがないんですよ。冬場はビニールハウスのなかでしかできないんですが、それでも週に2回、練習のある土日が待ち遠しいぐらいでした。そのときのセンバツが、長野での開催だったでしょう。いまも、スケルトンのコースが長野にあるので、活動の拠点は長野です。まさか長野に戻ってくるとは思いませんでしたが、なにか縁がありますね。
★新しい夢を求めたくて
――シニア時代はどうだったんですか。
稲田 弱小も弱小でした。2年のときは、年間通じて3回くらいしか勝っていないんじゃないですか。リーグ戦ごとに1勝すれば御の字、という感じで。3年のときは、あと1勝で全国大会というところまでいきましたけど、7対1から残り3イニングで逆転負けしたのをいまでも覚えています。これで全国は決まった、とどこかで気がゆるんだんでしょうね。
高校は駒大岩見沢に進んで、3年の春に甲子園に出場しました。相手は広島の高陽東というチームで、僕は九番セカンドで1安打。セーフティバントですけど、ヒットはヒットですからね。結局この試合、こっちが相手の倍の10本ヒットを打っているんですが、2−3で負けてしまいました。結局、高陽東は、この大会でベスト4まで進みましたから、強いチームだったんですね。
この試合はけっこう好カードといわれていたんですよ。お客さんも4万人入りまして、もうグラウンドから見たら超満員という感じです。ウチは新チームになってから39連勝していて、ですから自分たちも、試合をしているときは相手が強いという印象はなかったんですね。大学に進んでから、高陽東から東北福祉大に進んだ大河という選手とよく話したんですけど、ウチとの試合が一番苦しかった、とよくいっていました。
――その仙台大学時代、スケルトンを始めるわけですね。
稲田 ええ。東北福祉大というのは、毎年何人もプロに行くようなチームでしょう。そんなチームと同じリーグでやっていると、イヤでもカの差を感じてしまう。それがショックでした。彼らのプレーを見たら、自分はプロ野球なんてもちろん、一生懸命やっても社会人に進めるかどうか。野球での、自分の限界を感じてしまったんですね。リーグ戦で東北福祉大と戦うときには、チームが負けて当然、という空気になるのもおもしろくなかった。もっと夢のあることをしたいな、と思いはじめたんです。
そんなとき、友だちがボブスレー部にいたこともあり、僕自身映画の『クール・ランニング』を見ていたから、ボブスレーもいいかな、と。大学2年(98年)の夏でした。ボブスレーは、大学から始める人がほとんどなんです。僕は曲がりなりにも野球をやっていましたから、体力的に同じスタートラインに立てるだろう。もちろん、野球にも未練はあったんですけど、ボブスレーかリュージュで世界をめざす、というのが魅力的でした。
――ボブスレーかリュージュ、ですか。スケルトンじやなく。
稲田 そのころ、スケルトンなんて知らなかったんですよ。ウチの大学でやっている人もいなかったし、大学の先輩である越(和宏・ソルトレークシティ五輪代表)さんの名前もあとで知ったんですよ。ですから、最初の3カ月くらいはボブスレーの練習をしていたんです。ところがボブスレー部の鈴木先生が、「スケルトンという競技があって、次のオリンピックではおそらく正式競技になる。日本ではまだ競技人口が少ないし、世界に通用するチャンスはいくらでもあるぞ。オマエはスケルトンに向いている」と、しきりに勧めるんですよ。
自分は見たことも開いたこともないスポーツよりボブスレーをやりたいんです、とそのたびに断っていたんですが、最後は根負けしたかっこうですね。わかりました、やります、と。結局4、5人が同時期にスケルトンを始めることになりました。とはいっても、お手本もなにもないでしょう。どういう競技かを学ぶために、ワールドカップのビデオを入手したり、練習メニューを全員で話し合ったり。まったく手探りでした。
それでも、99年の1月には早くも競技に出るんですから、なんとかなるものですね。最初はむちゃくちゃ怖かったですよ。なにしろアゴの下15センチくらいにある氷を、猛スピードで滑っていくんですから。車を運転していても、ジェットコースターに乗っていても得られない目線だし、スピード感でした。一緒に始めた人間のうち、自分が一番小心者でびびっていたんじゃないですか。
★きっかけは“消極的”だった?
――その小心者が(笑)、それから4年もしないうちにオリンピックに出た、ということですか。
稲田 運がよかったですね。きっかけは積極的じゃなかったのに…当時は辞退していましたけど、いまでは感謝しています。オリンピックは結局18位で、世界との差を痛感しました。スタートダッシュのタイムは4、5番目なんですが、まだ微妙な技術がついてこない。スケルトンという競技は、いかにいいコースを通るか、そしていかに減速しないかというのがカギなんです。いいコースを通るには、ランナー(ソリの刃)を操作しないといけない。ところが、ランナーを操作すると、ブレーキがかかってしまう。だけど操作しないといいラインが取れないので、タイムがかかる。操作するとタイムが遅くなる、しないとコースが取れない、このかねあいがむずかしいんです。
世界のトップ選手でも、パーフェクトなラインを通るのはほとんど無理です。問題は、ミスしたときにそれをどれだけ早くリカバリーできるか。トップ選手は、あるカーブでミスをしても次のカーブでそれを取り返しています。そのときに、ミスをミスにしないリカバリー。自分にはまだ、そこまでのテクニックがない。ひとつのミスを、2つ3つ先のカーブまで引きずってしまうんです。0.1秒のロスはだいたい3メートルに相当しますから、これは大きいですよ。
――今シーズンは、自己ベストタイの12位を含め、ワールドカップ3戦でトータル16位(12月15日現在)。当然、次のトリノ五輪(06年)が視界に入っている…。
稲田 大筋はできているんですが、まずは今シーズンですね。2月16、17日には長野で世界選手権があるので、そこでいい成績を残すように照準を合わせているところです。8番以内、よければ表彰台に載りたい、と自分では目標を定めています。この世界選手権を含め、ワールドカップとトータル7戦でランキングが決まるんですよ。ことに男子の場合は接戦ですから、ひとつミスを減らせば順位は簡単に2つ、3つ上がります。完璧な滑りをすれば、毎回10番は確実に入れる。その完璧な滑りがむずかしいんですけどね。野球と同じで、明日いきなりうまくなることも、順位が上がることもない。1日1日積み重ねていって、トリノまでに常時世界で10番に入れるようになりたいですね。
――稲田さんを見ていると、楽しそうですね。
稲田 僕は子どもたちに、野球は楽しいことだ、というのを体で感じてほしいんですよ。自分は楽しいから練習しましたし、毎日ボールにさわらないと気がすまなかったくらいです。そうすれば自然にうまくなるんじゃないですか。うまくなればそれもまた楽しいから、もっとうまくなろうと思うでしょうし。それは、スケルトンでも同じですね。
僕は、オリンピックやワールドカップという大舞台でも、冷静にプレーできたんですよ。それは、甲子園のあの大観衆のなかで試合をした経験も大きな要因になっていると思う。それに限らず走力、基礎体力、技術、団体競技で感じた仲間の大切さ…など、野球で得た財産は、確実にいまの僕を支えてくれていますね。
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いなだ・まさる 1978年11月2日生まれ、北海道出身。札幌白石リトル時代の91年、全国選抜大会に。駒大岩見沢高校では96年、センパツ出場。甲子園では2打数1安打。仙台大学2年のときスケルトンに転向し、卒業後、長野の松田産業で活動。02年ソルトレークシティ冬季五輪では日本代表となり、18位だった。現在は長野県ボブスレーリュージュ連盟に所属し、世界を転戦する。ダッシュカに定評があり、06年トリノ五輪ではメダル獲得をめざす有望株だ。
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