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【オリックス・ブルーウェーブ 大島 公一内野手】
小さくたって、夢はプロ野球選手。ハンデに思ったことは、一度もなかった

オリックス 大島公一内野手  小2ぐらいのときだったかな、町内会で野球をやっていた中に板橋リーグ関係の方がいらして、「よかったら観に来ないか」と誘われたんです。たまたま練習場も近くだったもんですから、バックネット裏で練習を観ながら、ファウルが飛んでくればボール拾いをするようになりました。それを見ていた監督さんかコーチに、「うちで野球やらないか」と声をかけられ、正式入団。初めは何でか分かりませんが、キャッチャーをしていました。

 低学年のときはいろいろなポジションをやって、4年生ぐらいになったころには6年生に交じって外野も経験。5、6年生ではほとんどショートを守りました。当時板橋だけで5チームはありまして、リーグの選抜チーム″に選ばれないと、大会に出場できなかったんです。僕が6年生だった1979年は、僕のチームが優勝して、うちの監督が板橋の監督に。僕のチームのメンバーを中心に、関東大会に行きました。リトルでの一番の思い出は、この関東大会に優勝し、全日本の準決勝で仙台に負けたことですね (編集部注‥この年の全日本選手権は北海道、東北、信越、関東、関西各代表の5リーグによって争われた)。あのころは調布と保谷が強く、だいたい同じようなところが全国大会に出ていたんです。そこに勝たなくては、僕ら全国に行けなかった。

 あの年は、関東大会の準決勝で保谷を破って(5対4)、決勝進出を決めたんです。僕は同点の満塁ホームランを打ちました。決勝では水戸に延長で勝って、優勝。あれは本当にうれしかったですね。あとから分かったんですが、水戸の四番は、デープ大久保さん(元巨人、現解説者)でした。

 このチームで全国制覇したいと思ったし、するつもりでいたのが、全日本の初戦仙台に6対1の敗戦。負けるつもりはなかった試合ですから、すごく悔しくて、涙を流したのは覚えています。

 当時、僕は140センチ、35キロ。チームでも小さいほうでしたが、リトル時代はそれほどハンデには感じませんでした。中には170センチを超える人もいたけれど、決して負ける気はしなかった。「ハンデやなあ」って感じるようになったのは、大学生ぐらいのころかな。でも、ないものはしょうがない(笑)。現状で最高のものを求めるしかないわけですからね。

 今体の小さい子たちも、野球をやっている問は、「僕は小さいから」なんて考えず、いいところを伸ばすようにすればいいんですよ。野球を離れたふだんの生活で、少しでも大きくなりたいと思っていれば食も進むだろうし、よく寝てよく食べて、というリズムを守れば、大きくなる可能性も出てきますから。僕は小さくたって、目標はずっとプロ野球選手。「ぜったいになるんだ」って思っていました。その夢を実現できてありがたいし、本当に幸せです。

大島 公一(おおしま・こういち) 1967年6月17日、東京都生まれ。法政二高2 年春に甲子園に出場。法政大から 社会人・日本生命を経て、93年ドラフト5位で近鉄入団。96年、オリックスに移籍した。今シーズンはサードで109試合に出場し、打率.285。11年目のベテランとして、精神面でもチームを支えた。167cm67kg、右投両打。背番号52



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