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【水戸リーグOB/デーブ大久保さん】
リトルリーグで得たものは、すごく大きいですよ。
いつかは覚めるかもしれませんが、大きな夢を持ってほしい。

 明るいキャラクターとわかりやすい話術で、お茶の間で人気の大久保さん。リトルリーグ時代は“水戸のドカベン”と呼ばれ、特大のホームランを量産していたのです。どんな少年だったのでしょうか……。

あこがれだった神宮。キヨも同じ大会に出ていたらしいです


79年の全国選抜大会、神宮球場前で。前列右から2人目が大久保さん

どっしりとしたかまえからホームランを量産した“水戸のドカベン”

野球界に恩返しをしたいと、積極的に野球教室に駆けつける

水戸リーグの子どもたちにとっては、オールスターの青いユニフォームがあこがれだった
−−手元に、大久保さんがリトルリーグの全国選抜大会に出た、1979年の新聞の切り抜きがあります。“水戸のドカペン君”……準々決勝、保谷戦の3回、特大の2ランホームランを打っていますね。その記事によると163センチ、65キロ。この年、浪商のドカペン・香川伸行さん(のち南海・ダイ工−)が春夏連続甲子園に出場して、人気者になっています。記事によると「小太りして腕力が強そう。そのうえ二コニコして闘志にあふれたプレーぶりが、浪商のドカペン君そっくりである」。

大久保 ああ、覚えてますよ。リトルの思い出は、けっこう鮮明です。あの大会は、準決勝までいくと神宮球場でできたんです。なんとか神宮でやりたい、と思っていましたから、よかったですね。で、宿泊が神宮球場わきの日本青年館だった。準決勝の相手は、摂津リーグで、ヤツら、なぜか知らないけど“JAPAN”と胸文字の入ったユニフォームを着ているんですよ。子ども心に、“なんだよ、不公平じゃないか”と対抗心を燃やしまして。食事のとき、向こうの選手がドンブリ飯を何回もお代わりしているのを見て「アイツは5杯目か、それならオレは6杯いくぞ」と競争して、勝ちました(笑)。

−−(笑)解説しますと摂津は、その年の全日本選手権に優勝していまして、日本代表で極東選手権に出たんですよ。センバツには推薦出場、それで“JAPAN”のユニフォームを着ていたんです。

大久保 あっ、そうだったんですか。まあ僕らは神宮の準決勝、最初は雨でノーゲームになり、再試合で摂津に負けてしまいましたけどね。それでその大会、キヨ(清原和博・巨人)もいたらしいんです。「僕らも青年館に泊まりましたよ」といっていましたから。僕は早生まれだから中1で、キヨは小学6年生。だから食事なんかも、同じところで食べたわけですよね。

−−これも解説しますと、清原さんのいた岸和田リーグは、決勝で摂津に負けています。清原さんはピッチャーで七番。当時から大きかったですね、165センチとあります。また優勝した摂津には、今久留主成幸さんがいまして、のちにPL学園で捕手としてKKとともに大暴れし、明大を経てプロ入りしています。すごい顔ぶれだったんですね。デーブさん、そもそもリトルリーグに入ったきっかけはどうだったんですか。

大久保 小学校1年のときから家でバットを振っていましてね。なぜか、1日100回振るんだと決めていた。ただ、僕の育った大洗には、野球のチームがなかったんで、練習といっても個人的にするだけなんですけどね。僕は3歳のときに父を亡くし、母(友美子さん)が女手一つで育ててくれたんですが、水戸で仕事をしている母に、ときどきついていったんです。で、仕事が終わるのを待っていると、帰りに水戸駅南口のうどん屋さんに連れていってくれたんですよ。そこの鳥南蛮うどんが大好きでね。

−−リトルの話はどこにいっちゃったんですか(笑)。

大久保 ここからです(笑)。で、車に乗って水戸中央公園というところを通りかかると、同じユニフォームを着て野球をやっている子どもたちがいるんですよ。そんな姿、大洗では見たことありません。なんだろう、あれ……と思っていたら、あとになって母親が調べてきてくれました。入団の方法まで。それが水戸リトルスターズだったんです。それで、小学5年で入りました。そのころにはもう、自分はプロ野球に入って活躍するんだ、という夢を持っていましたね。

 それでリトルに入って、いきなり練習試合で代打に使われてポテンヒットを打つと、次からはスタメン。4の4だったかな。5年生だからマイナーなんですが、マイナーの試合のあと、リトルの試合に出てもばんばん打ちましたよ。6年のときにはもう、水戸リーグのオールスターに選ばれて、あこがれだった青いユニフォームを着ました。僕はね……素質はあったかどうかわかりませんけど、練習できる素質だけはありました。テレビを見るのも野球ばっかりで、ピッチャーのフォームに合わせてタイミングを取っていた。まだ低学年のころ、茨城県では、鉾田一高に戸田秀明さんというピッチャーがいました。センバツ高校野球でノーヒット・ノーランもしているすごいピッチャーなんですが、その人のフォームにタイミングを合わせながら「なんだ、打てそうだな」とか思っていましたよ。

うまかった鳥南蛮うどんから、打倒調布まで

−−ははぁ……。79年の全国選抜もそうですが、ほかに印象に残っているゲームというとどうでしょう。

大久保 関東大会だったかなぁ。調布に遠征に行ったんですが、道が混んでいたのか、なぜか試合に遅れてしまってね。公式戦なのに、なんで遅れるんだよ、と半ベソかいていたところ、調布の監督さん(鈴木英夫氏・当時)が「ウチはいいですよ、不戦勝なんかよりもきちんと試合をやろうよ」といってくれまして、遅刻したのに試合はできたんです。ただ僕はキャッチャーをやっていたんですが、一番から九番まで、7、8人にホームランを打たれた記憶があります。グウの音も出ません。僕はどん詰まりのライト前1本だけ。

 荒木(大輔)さんで世界一(76年)になってすぐでしょう。調布は子どもの数もすごく多くて、オールスターに入れない子らが、グラウンドのわきに200人くらいいて応援しているんですよ。すげえチームだな、と思いました。リトルリーグの専用球場で試合ができたことに感動はあったんですが、打ちのめされたショックのほうが大きかったですね。そのときから、打倒調布が合言葉になりました。それで、全国選抜の関東大会かな、また調布に当たったんです。このときは、追いつ追われつのシーソーゲームでウチが勝ってね。僕は4の4か5の5で、全部二塁打でした。

 結局この大会で傍らはセンバツの切符を手に入れたんですが、あとでかあちゃんから「調布の監督が“(水戸の) 四番一人に負けた”といってたらしいよ」と聞いて、オレってすげえな、と思いましたね。なにしろ相手は、世界一になった監督ですから。

 とにかく、おふくろには感謝、感謝です。試合の前日には「なにを食べたい?」と、弟もいるのに僕の希望を最優先してくれ、全試合を見に来てくれました。一度、仕事の都合でどうしても遅れるというときがありましたが、僕はファウルを打ち続けて待っていましたもん。そして「おっ、来たぞ」と姿が見えたら、ボーンとホームランです。

−−リトル時代、100本はホームランを打っていた、と聞きます。さすが水戸のドカペン……。

大久保 太っていたっていいんですよ。僕も、もともと走ることなんか期待されていませんから、その分打ってやる、という気でいましたね。だいたい、足が遅い子に速く走れ、といってもムダですよ。だけど遅いなりにも、全力で走ることはできるじゃないですか。指導者の方には、そういう目で見てほしいですね。できないから怒る、のではなく、手を抜いたら怒る。また、この子は体が小さいからバントだけとか、体で決めつけるのもダメですよ。体なんて、いつ大きくなるかわからないんですから。体さえ大きくなれば、パワーがないからそれまでできなかったことが、簡単にできるようになるんです。

 ただ、うまくなりたいんなら自分の時間をいかに犠牲にできるかですね。疲れたからまあいいや、ちょっと横になろう……じゃなくて、そこで妥協せずにバットを振る。それが、自分に勝つということです。僕は、「今日はいいか」と手を抜くことはなかったですよ。結局は、自分でやってきた練習の量が自分を支えるんです。工藤(公康・巨人)さんもそういっています。あの200勝投手だって、毎回投げるのが怖いんですって。投げなければ、少なくとも打たれてしまうことはないですが、一度マウンドに上がったら、KOされるかもしれないわけ。それを奮い立たせるのが、自分のやってきた練習に対する確信だそうです。

−−大久保さんの場合も、小学校1年から、1日100本の素振りという約束を果たしていたんですもんね。小学校1年で100本、というのは並大抵じゃないですよ。リトルを卒団したあとは?

大久保 ウチの中学は、全員にクラブ活動が義務づけられていましたから、ギター部に籍を置いていました。でも、コード2つしか弾けません(笑)。リトルの弊害は、学年の途中で活動が終わってしまうことなんですよ。ことに中学生だと、リトルが終わってからあらためて新しい運動部に入るのは、ちょっとむずかしいでしょう。まあ、日米で新学年の始まる時期が違うので、それはしょうがないかもしれませんが……。

 それで野球のほうは、元巨人や近鉄でプレーしていた加倉井(実)さんという人が水戸で下宿屋をやっていまして、その方にティーなどを見てもらっていました。そのうち、どうせ下宿屋なんだからウチに下宿するか、ということになって、中学の途中から下宿生活です。そこから水戸商高を経て、84年のドラフト1位で西武に入りました。

母親に対する感謝は、忘れたことがありません


小学校1年から、1日100本の素振りをこなしていたという
−−お母さんに、契約金4500万円をボンと渡したことで話題になりましたね。

大久保 僕という人間は、オフクロを見ていて、自然に身についたことでできているんです。高校では、上下関係の理不尽さが腹に据えかねて、「先輩を殴って、学校やめてもいいか?」と聞いたらオフクロ、「いい。そのかわり、母ちゃんに先に殴らせろ」。そんなオフクロでね(笑)。いま自分も親になって、しみじみとオフクロのありがたさがわかりました。たとえば挨拶。僕は徹底して教え込まれました。親に対して、心から「おはよう」 「ごちそうさま」 「ありがとう」といえるか。もごもごと、まともに口にできないようではダメです。グラウンドで監督、コーチにいくら挨拶できても、それは心のこもっていないまやかしでしょう。

 自分がやられてイヤなことは、人には絶対するな、というのもそう。僕らは高校時代、徹夜でグラウンドをならしたりとか、そりやあ上の人に厳しくやられました。でも僕らの時代になったら、下級生にやらせるのなら、まずは自分たちが率先してやろう、という姿勢を貫きました。かりに下級生をしかるときは、監督と部長に報告し、なぜしかるのかを説明して、見ていてもらいましたよ。一度なんかは、ソイツの父親公認で、下級生をどやしつけました。「とんでもねえ息子だ。大久保、もっとやれ!」と、逆にけしかけられましたよ(笑)。

−−いい話ですね(笑)。大久保さんの息子さんも、かつてはリトルリーグで、いまはシニアリーグでプレーしているとか。

大久保 これは指導者の方にお願いなんですが、息子がリトル時代に一度練習を見に行って、ぴっくりしたことがあるんです。もう、ものすごい強烈なノックを打っておいて、エラーでもしようものなら「しっかり捕れぇ!」とクソミソですよ。見るに見かねて「あんな打球、江藤(智・巨人)でも捕れねえよ。捕れねえのは、教え方がヘタだからだ」。僕の感じでは、怒られて育った選手というのは、かりにプロに入っても、チャンスの打席をピンチと感じてしまうんですね。「打てなかったら怒られる」 「打てなかったら二軍落ち」と、自分のほうが逆に追い込まれてしまうんです。怒られないようにしよう、としか思わない。

 親も、プレッシャーを与えてはダメですよ。野菜を食べなさい、と命令するのでは、かえって反発やストレスを招いてしまいます。そうじゃなく、その肉といっしょに食べてごらん、おいしいよ……。

−−なるほど、それなら「じゃあ食べてみようかな」という気になる。

大久保 あくまで、主役は子どもですから。大会に勝つというのは子どもたちの目標であって、大人がそれを目標にするのはどうでしょう。大人が勝つことに目の色を変えると、ちょっと痛いという子にも無理にプレーをさせ、ケガをさせて、将来を奪ってしまうかもしれないんですよ。僕、思うんですけど、アマチュアの指導者の方のほうが、かたくななところがあると思います。人の意見を、聞く耳を持たない。僕は右投げ右打ちでしたから、左打ちをどうやって教えたらいいのか、素直に聞きますよ。(高橋)由伸、(阿部)慎之助……プロのほうが、考え方が柔軟だと思います。

 それから子どもたちにいいたいのは、僕たちの時代に比べるとゲームだなんだといろんな誘惑が多いですけど、一生懸命野球をする。そしてたっぷり食べて、しっかり寝る。食う寝る遊ぶ、これが子どもの仕事ですよ。

 僕の息子は右投げ左打ちですが、冷静に見てプロは無理だな、と思っていたんです。ところがこの間久しぶりに見たらね、カーブの見逃し方ひとつとっても、どっしりしているんですよ。思わず「プロになれるよ」と、ホンネで声をかけました。そうしたらその日、夜12時をすぎて、息子の姿がないんですね。家にいない。どうした、家出か? なんてふざけていたら、外でバットを振っていたというんですよ。子どもにかける言葉って、大切なんですね。ティーバッティングがバットに当たるのなら、どんな子でもプロになるチャンスはあると思います。夢はいつか覚めるかもしれませんが、子どものころは大きな夢を見てほしいですね。

大久保 博元(おおくぼ・ひろもと) 通称デーブ大久保。1967年2月1日、茨城県生まれ。大貫小5年で水戸リーグに入団し、79年全国選抜大会ベスト4。水戸商高時代は通算52本のホームランを放ち、甲子園出場はなかったものの84年のドラフトで西武に1位指名されてプロ入り。92年のシーズン途中で巨人に移籍し、94年には魅力的なフルスイングで日本一にも大きく貢献した。95年に引退後フジテレビ、ニッポン放送などで解説者として活躍中。持ち前の熱血で、引退後に始めたゴルフでは、プロテストにも合格している。


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