【秦野リーグOB/読売ジャイアンツ・原 俊介捕手】
「300本ノック」乗り越え、チーム一丸でつかんだ日本一
90年、新加盟の秦野リーグで、僕らは全日本選手権初優勝を果たしました。全体的にバランスの取れたいいチームでしたが、何より練習量が半端じゃなくすごかったんです(笑)。平日は月曜以外毎晩6時から、土日も照明のあるグラウンドでみっちり練習。監督は本当に厳しいかたでした。
中でも忘れられないのは、リーグ名物「300本ノック」。今思い出すと、本当に数えていたかはわからないのですが、300本近く打球を捕りにいく。失神する子もいましたよ。だけど要は捕る、捕らないではなく、限界を超えてからの最後の一本への食らいつき、諦めない気持ちを養うことが目的。最後の1本にどう食らいつくか、そこのガッツの問題なんです。そこで「ああ、もうダメだ」と思うのと、「よ〜し、まだいける」と思うのとでは、まったく違いますからね。のちの練習や試合にも、そういった精神力は生きました。
実際、全日本も苦しい戦いばかりでした。僕らは発足したてで全国のレベルも知らないくせに、なぜかチーム全員で「あんなに苦しい練習をしてきたんだから、俺たちが日本一になれないわけはない」と信じていました。あの練習での自信が、日本一という結果につながったのだと思います。
続く極東選手権(現在のアジア大会) は、九州で開催されました。今年は15年ぶりの日本、しかも同じ九州開催になるそうですね。僕もせっかくの極東大会だから、海外に行ってみたいという気持ちはありましたが、環境としては日本でやるのが一番だったと思います。何よりあの年齢で外国のレベルを学んだこと、プレッシャーの中で野球をしたことは、今になってみれば貴重な体験でした。結果は4位に終わりましたが、あれもまたリトルのいい思い出です。
リトル時代、僕はピッチャーで、175mの体格を生かした速球派。もう一人、大松君というコントロール重視の技巧派と、本柱としてマウンドに立っていました。大松君はその後、鎌倉学園高へ。僕は東海大相模高に進学し、高1の終わりにキャッチャーに転向しました。高2の秋、高3の夏と、1回戦で大松君の投げる鎌倉学園と当たり、共に1回戦負け (笑)。でも僕も大松君も、リトル、シニアでの苦しい練習を乗り越えたから、高校での練習にも耐え、長く野球をやることができたんですね。
今の小さな子どもたちは、何か課題を与えられたとき、最初から「ムリだ」という子が多いように感じます。まずはガツとチャレンジして、それに全力投球をしてみてから、判断すべきこと。僕らは当時、自分たちでそこまでは気づいていなかったけれども、周りの環境がそうさせてくれました。人間性、物事に対する考え方を、このリトルの時代に培ったと思います。
原 俊介(はら・しゅんすけ) 1977年8月30日、神奈川県生まれ。東海大相模高から96年ドラフト1位で巨人に入団。打球の飛距離はチームでもトップクラスと定評。03年は代打の切り札として活躍も、昨季は故障で出遅れた。打力を生かし、レギュラー獲りに再チャレンジする。180cm85k9。右投右打。背番号62。 |
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