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【新潟東リーグOB/広島東洋カープ・小林幹英投手コーチ】
四球を出すけど三振も取る“エース” 韓国遠征でも賞をもらいました

 小4のとき、東京から新潟に引っ趨しました。東京でも野球部に入っていて、新潟の小学校でも続けようと思ったのですが、練習を見たらどうも面白そうじゃないんです。それで、近くにあった新潟東リーグのグラウンドに見学に行き、リトルに魅かれました。東京時代は低学年だけのチームだったので、リトルに入って上に体のでかい中1がいることのインパクトも、すごいものでした。

 練習は土日だけでしたが、監督は厳しく、ひたすら「走れ、走れ」。冬になると、体育館の中をずーっと走っていました。キツくていやでしたけど、冬は体力作りが当然と思っていましたので、黙々と練習していましたよ。

 当時、信越連盟は変化球を投げることを禁止していました。真っすぐだけなので、駆け引きなんてものはなく、ひたすらバッターとのカ勝負。小学生と中学生では体格の差が大きくて、中学生がピッチャーをやると、ほとんど打たれませんでした。

 僕はといえば、コントロールが悪く、「三振か四球か」というピッチャー。でも、チームのエースでした。入るときは、入るんですよね。四球で試合をぶち壊すんじゃなく、四球も出すけど三振も取る、というタイプ。今のリーガーと違って、僕ら、コーチに細かいことは言われませんでした。親父には、よく「ひとり相撲をとってるぞ」と注意されましたけど(笑)。

 リトル時代の一番の思い出は、韓国遠征に参加できたことです。新潟市内のリトルリーグでで選抜チームを作り、親善試合に行きました。ふだん試合をしていて、「いい選手だな」と思っていたやつらと同じチームで野球ができて、楽しかったですね。試合は引き分け一つで、あとはほとんど勝てませんでした。どうやら向こうのほうが、学年が一個上だったようです。体自体が違っていて、よく打つ選手ばかりでした。あ、僕はあまり打たれませんでしたよ! ちゃんと賞をもらって帰ってきましたからね。

 リトルでは野球のほかに、「礼儀」の大切さも学びました。礼儀って、当たり前のようにできるはずのことが、できない人も多いんです。だけど、それができていい思いはしても、イヤな思いをすることは絶対にないんですよ。僕は大学、社会人、プロと野球を続けましたが、先輩にもかわいがってもらえました。僕自身、スポーツのタテ社会は好きではありませんけれども、年上の人に対する礼儀や言葉使いは、どんな世界でも必要です。それを変に意識せずに、自然と覚えることができたのは、リトルに入ったおかげだと思っています。

小林 幹英(こばやし・かんえい) 1974年1月29日生まれ。新潟明 訓高から事大、プリンスホテルを経て、98年ドラフト4位で広島入団。ルーキーながら広島のリリーフ工−スとして活躍し、27セーブポイントをマークした。一昨年の故障から復活に期待がかかったが、今シーズン終了後、惜しまれながら現役を引退。一軍投手コーチに就任。181cm87kg。右投右打。



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