【大阪西リーグOB/前楽天監督・現野球評論家 田尾安志さん】
野球は楽しいということ─ 常に野球人生の根底にあったものを、リトルリーグで教わりました。
2005年、新球団・楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた田尾安志さん=写真。実はみなさんの大先輩、元リトルリーガーだったのです。リトルリーグ創世期、どんなリーガー時代を過ごし、そしてプロの道を歩んでいったのでしょうか。お話を伺ってみました。
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★いろいろなところに遠征したこと、おいしいものを食べさせてもらったことがリトル時代のいちばんの思い出
─『大阪西リーグ』のご出身だそうですね。
田尾 ええ。ただ、僕は関西の第一期でしてね。自分から『リトルに入りたい』と言って入ったわけではないんです。大阪西リーグを作るために選手を集めていたところ、ソフトボールの大会である程度の活躍をしたところを認められて、スカウトされたんですね。だから、それまではリトルリーグというものがあることも知らなかったんです(笑)。
─それが、何年生ですか?
田尾 小学6年生のとき、1965年ですね。
─いきなりソフトボールから硬球というのは、どんな感覚だったのでしょう?
田尾 まず硬いし、バットで打っても手に響く。最初は痛くて、怖いイメージがありましたね。別に軟式野球も町のチームでやっていたんですが、硬球に接するのは初めてでしたから、違和感はありました。
─選抜された選手ばかりですと、練習は厳しかったですか?
田尾 厳しくはなかったですね。もう、練習の印象自体ないぐらい(笑)。僕は当時、小学校の水泳部と、土日の軟式野球を掛け持ちしていたんです。リトルは本当にときどき集まる、という程度。だから、リトルではそんなにみんなでたくさん練習した思い出はないんですよ。
─とすると、野球の基礎は、リトルより前に覚えていらした?
田尾 軟式野球のほうでやったものを、リトルのゲームで実践する、といった感じでしたね。大会の前ぐらいになると、ちょっと集まって練習していましたから。
─顔合わせのようなものですか?
田尾 そうですね。集まって、ノックして、ちょっとバッティング練習をして、というぐらい。選手たちが自由にやっていたという感じですね。
─リトルでイチバン印象に残っているのは、どんなことですか?
田尾 とにかくいろいろなところに遠征で連れて行ってもらったことと、何かおいしいものを食べさせてもらえた、という2つです(笑)。和歌山に遠征したときのことは、今でも覚えていますよ。
─試合の戦績は覚えていらっしゃいますか?
田尾 それが、強かったんですよ。67年、関西で優勝して、全国大会へ進みました。まあ、全国大会といっても、まだ関西と東京ぐらいしか参加していませんでしたが、確か2チームずつ、4チームが集まっての大会だったと思います。だから1つ勝つと、次はもう決勝。決勝で、西東京に負けました。
─リトル時代の“田尾選手”の成績はいかがでしたか?
田尾 残念ながら、覚えていないんです。ただ、僕は中学1年までリトルでやれましたから。全国へ行ったリトル2年目は、西リーグ内で代表選手を選ぶための試合があったことは記憶しています。そこで活躍したら、西リーグのオールスターに入れる。そういうときは、ホームランを打たなかったら活躍をしたように見られない、というぐらいでしたね。5打数5安打を打っても、ホームランがなかったら、今日はもう一つだったな、と評価されてしまうんです。
 05年、新規参入球団・楽天の初代監督を務めた田尾さん。地元・仙台のファンの大きな声援を受けた |
★大学時代、プロ入りした先輩たちを見て僕もやれると確信した
─リトル時代、近々の目標から少し先の夢というと?
田尾 小さいころは、プロ野球選手になりたいという気持ちはありましたね。でも、これは本当に憧れであって、現実的にはまったくそこまで思ってませんでした。
─甲子園への憧れはありませんでしたか?
田尾 中学も高校もふつうの公立でしたから、そういう意味では、高校の野球部は、僕が入学するとき2年生が2人、3年生が3人しかいなかった。まあ、入ってすぐレギュラーになれる、という特典はありましたが(笑)。監督もOBの大学生で、時間の持てる人の中からきてもらうという形。グラウンドにしても、いろいろなクラブが練習している中で野球部もやっていましたから、週に2回しかバッティング練習ができないとか、何かと制約がありました。僕はもっと練習がしたくて、朝練をしていたんですが、やっていたのはいつも僕だけでしたね。本当に、甲子園を狙うようなチームではありませんでした。
─とすると、高校時代は野球を独学で勉強した?
田尾 ただ、グラウンドで野球をやっているだけでしたよ。実際、バッティングも誰に教わったというものもなく、自分の感覚です。(同志社)大学時代も、特にバッティングは教わりませんでした。大学の監督は渡辺博之さん(故人)といって、阪神、近鉄で10年間活躍、与那嶺要さん(巨人)と首位打者争いをしたこともある方。その監督に、「これで打てるんだから、変える必要はない」と言われましてね。まるっきり教えてもらったことがない中で、プロになりました。
─田尾さん自身、いつごろからプロでやっていける、と思うようになったのでしょうか。
田尾 僕自身は、大学に入ってからだと思います。実は高校のときも、広島カープは来ていたそうです。僕、高校ではずっとピッチャーをやっていて、大阪の夏の予選でベスト4まで行ったんですよ。途中、優勝候補筆頭だった近代付と2回戦で当たって、3安打完封。そこで、ちょっとクローズアップされたようです。
大学進学後、2年生のとき、初めて全日本にピッチャーで選ばれました。そのとき、僕の2つ上の学年に、その後プロに指名される選手たちがいたんです。その人たちと同じチームでやって、これがトップレベルなのかな、これだったら俺もやれるな、と思いました。翌年、その人たちがレギュラーになったり新人王と獲ったりしましたので、プロのレベルがどのくらいのものか、目安になりました。これは大学の監督にプロに入るときに言われたことなのですが、「最初に“うわっ、すごい”と思ったらちょっと時間がかかる。でも“たいしたことないかな”と思ったら、まあ早く結果を出せるんじゃないか」と。その通りでしたね。
─全日本のアメリカ遠征では、何か印象に残っていますか?
田尾 アメリカの選手たちのスピードが一段上だったので、やはりこっちはすごいな、と感じましたね。ピッチャーの球のスピードも足の速さも、肩の強さにしても、すごいのがいるな、と。特に僕が4年のとき日米野球で戦ったアメリカのチームに、非常にレベルの高い選手が集まっていましてね、すぐメジャーでガンガン活躍する選手が出ましたけど、彼らと試合できたのも、とてもいい経験でした。江川卓(元巨人)が僕らの2つ下、斉藤明夫(元横浜)が1つ下でいたんですけれども、彼らのスピードよりも速いな、というのが3人ぐらいいましたね。大学時代にそれを観たので、プロの速球派といわれても、それほど驚くことはなかったです。むしろリトル時代、和歌山に僕らと同い年のいいピッチャーがいましてね、そのスピードは、それに匹敵するぐらい速かったですよ。マウンドからの距離が近いし、中学1年生でも早熟な人はかなり速いんですよね。で、もう身長も170cm以上はありましたからね。仕方ないからだいたいで振ったら、ホームランになりました(笑)。
─だいたい、ですか?(笑)
田尾 はい、もうイチ、ニイ、サンで打ってるんですよ、速いから(笑)。あんな球よくホームランにできたなあ、と自分でもすごく印象に残っています。
─確かに当時の和歌山は、単独でアメリカに行って、世界大会で優勝したこともありました。
田尾 そのころ、本当にいいピッチャーがいたんですよ。僕がリトル時代に見たピッチャーの中では、NO.1でしたね。
★プロ野球界が足並みそろあえてアマチュアに恩返しできるよう努力していきたい
─田尾さんのお話を伺っていると、どちらかというと天才肌なのかな、と感じますが、ご本人はどう思っていらっしゃるのでしょうか?
田尾 僕はそんなに背も高くないし、最初からずっと甲子園を目指してやったといったことはないんですけれども、振り返ってみると、一番根底というか、野球は楽しいものだというのをリトルで教えてもらったような気はしますよ。野球をやることで、さっきも言ったように旅行にも行けたり、おいしいものが食べられたり、みんなと楽しく過ごすことがでいた。スタートが、厳しい野球ではなかったんですね。
僕は子どもたちには、ます野球のゲームをやらせるべきではないかな、と思っています。ゲームをやって失敗させるべき。そうすると、悔しくてもっとうまくなりたいとか、アイツよりももっとうまくなってゲームに出たいとか、感じるでしょう。最初から基本練習づくめでスタートすると、僕だって「もうやめようかな」と思ったかもしれない。初めにまずゲームをやるなど楽しいものを与えてくれたので、長続きできたんじゃないかな、という気はしています。
─ゲームをやると、どうしても大人のほうが勝ち負けに熱くなってしまいようにも思いますが。
田尾 うちの次男坊が、4年半ぐらいニュージーランドに行っていたんです。それで、いろんなスポーツをちょろちょろかじっていましてね。ラグビーに入っていた時期もありました。すると、向こうのラグビーはみんな、一つのチームに一軍から四軍まであるんだそうです。日本だったら一軍に入らないとゲームには出られないんだけど、向こうは一軍同士、二軍同士、三軍同士、四軍同士、と、全部他チームとゲームをやるんだとか。低いレベル同士でもゲームをする。そうすることによって、ゲームの楽しさというものを味わえるんです。一軍だからえらいとか、二軍だからダメなのではなくて、二軍は二軍で楽しむということが大きなポイントですよね。憧れとしてプロ野球選手になりたい、という気持ちはあるにしろ、みんながプロ野球選手を目指しているのではないし、みんなそのために養成されているわけでもない。野球というスポーツを通じて、いろいろなものを学ぶ。先輩、後輩の関係であったり、規律、規則を守ることであったり、あるいはチームワーク、楽しさ、そういうものを学ぶことが大切だと思うんです。リトルにしても、この先いい高校、野球の強い高校に入るための予備校ではないし、プロ野球選手になるための予備校でもないんだ、と。そういう意識でやってもらいたいなというのはありますね。
─息子さんとはよくお話なさるんですか?
田尾 うちは、特に女房がまた明るくて、何でも話をしますね。僕よりも、女房のほうにもっといろいろな話をしていると思いますよ。長男はずっと野球部に入っていて、弱い高校でしたけれどもピッチャーをやっていましてね。そのころは「プロ野球選手になりたい」と言っていたんですけれども、僕はだいたい長男のレベルを見ていたので、「いや、おまえにはムリだよ」とはっきり告げました。それでも「いや、絶対になれる」と言うので、「本気でなりたいんだったら、毎日500回素振りは最低しなくてはいけないぞ」と。そんなことを話し合ったときもありましたね。結局大学は、歯科系の学校に進んだのですが、そこでも6年間、ずっと野球をやっていました。もちろん、野球は弱い学校でしたけれどもね。でも、強くなきゃいけないとか、勝たなきゃいけないというだけではないと思うんですよね。勝つチームがあれば負けるチームもある。負けて勉強になることはたくさんありますから。
僕は高校に入った1年目、夏の大会1回戦で5回、17対0でコールド負けしたんです。悔しくて泣いて、絶対頑張ろうと思いましたね。ところが、ちょっと強いといわれている高校に練習試合を申し込んでも断られてしまうんです。リトルのときは、大阪ではトップクラスだと自分では思っていたんですけれども、弱い高校に行くと、今度は見向きもしてくれない。それが、一つのエネルギーになりましたよね。この連中に何とか勝ちたいという気持ちでした。
─そこで自分の夢を実現できる、できないの分かれ目はどこにあるのでしょう。
田尾 いろいろな要素があると思うんですよね。だけど、やはり個人、選手側から見れば、自分の責任で何でもできるか、ということ。人のせいにするな、と。誰でも現状には何かしら不満があるだろうけど、それを理由に逃げないでほしいんです。それよりも情熱をもって、野球に取り組んでほしい。やはり、野球を好きであってもらいたい、好きでずっと続けようという気持ちがあれば、何事にも耐えられると思うんですよ。教える側には選手の身になって考えてほしいけれども、選手はそれに甘えてもらいたくない。何から何まで、選手たちの思いどおりに、要求どおりにはいかないものです。
─田尾さんを初めとするプロ出身者は今後、どういった形でリトルを初めとするアマチュア野球にかかわっていくことが理想とされるのでしょうか?
田尾 僕はプロ野球界が中心となって、もっとアマチュアのほうにも貢献できるような形を作らなくてはならないんじゃないかと思っています。現状では、まだオーナーの集まりであるオーナー会議が一番大きな決定権を持つ組織なんですけれども、それでは困る。やはりコミッショナーが先頭に立って、野球界をいい方向に導く形にしないと。もっと具体的に言うと、1球団が儲かるのではなく、プロ野球界が一つの会社である、という認識の中で、全体が潤うような形を作っていって、その中のいくらかのパーセンテージは、アマチュアサイドに何かの形で貢献できるようにすべきだと考えています。結局アマチュアの方々のおかげでプロ野球選手が生まれているわけで、そういう意味でも、プロ野球界はそういう方々へのお礼という意味も兼ねて、やっていかないといけないんじゃないかな、と思います。現状の選手たちは、我々のころよりずっといい環境で野球をやらせてもらっているわけですから、それに対する感謝の気持ちも持っておかなくてはいけないですね。
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田尾 安志(たお・やすし) 1954年1月8日、香川県生まれ。大阪・泉尾高から同志社大を経て、76年ドラフト1位で中日入団。その年、新人王を獲得した。81年から4年連続3割をマークした好打者。85年、西武に移籍。その後87年、阪神に移籍し、91年、16年間の選手生活に別れを告げた。左投左打。外野手、昨季、東北楽天ゴールンデンイーグルスの初代監督を務めた。現在はフジテレビ系、ニッポン放送での野球解説のほか、日本経済新聞スポーツ面にコラム「スポートピア」を連載するなど、各方面で活躍中。 |
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